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【遙かなる紫の物語】若菜の章 その5

「藤姫様がなくなられました!」
 橘の館に急使が来た。
 あかねが真っ青になり、友雅はとるものもとりあえず土御門へ向かった。
「藤姫!」
 逝くな、藤姫! 私を置いて……! 友雅は、藤姫の体を抱いて叫んだ。別室では大声で加持祈祷をしている。
「藤姫! 話さなければならないことがあったのだ! 戻ってくるんだ!」
 友雅は藤姫の体を大きく揺り動かした。
 はあっと大きな息をして、藤姫が目を開いた。
「私……どうしたのでしょう……。」
 友雅が安堵のため息をついた。
「よかった……。息が止まっていたのだよ、もう、逝ってしまうのかと思った。私を置いて……。」
「友雅殿……。」
 藤姫はにっこりした。自分のために戻ってくれたことがうれしかった。大声で呼び戻してくれた……。友雅の心の中の自分を確かめて、藤姫は、自分の心も安堵しているのを感じた。
「……お話ししてくださることがある、と、呼ばれましたわね……。何ですの?」
「聞こえていたのかい? うれしいね……。」
 友雅は、今、藤姫に話す時かどうか、少し迷った。
「話してくださいませ……。」
 藤姫は、友雅の眼をじっと見つめて頼んだ。友雅も、藤姫の目を見返した。藤姫は、友雅の眼から話の中身を読もうとした。友雅は目を伏せた。今は、まだ、時ではない……。
「今度にしよう、藤姫。今は薬湯を飲んでゆっくりお休み。もう少し、落ち着いたら、必ず話すから。」
 女三宮のことなのだ、と、藤姫にはわかった。聞こうか聴くまいか、藤姫も迷った。今度はいつあるか……。今日、ここで友雅を返したら、また、自分の具合が悪くなるまで来ないのだろう。
「お聞かせくださいませ。今、聞きとうございます。」
 藤姫はきっぱりと言った。友雅は、やれやれと、人払いを命じた。
「具合が悪いのに、こんな話をする……。そのせいであなたがはかなくなられたら、私はどうすればいいのです?」
「お聞かせくださらなければわかりませんわ。」
「聞き分けのない頑固さんだ。では、お気に染まなかったら、忘れてくださいよ。あなたが元気になるのが、私の望みなのだから……。」
 友雅は、言葉を選びながら、藤姫に話し始めた。
「あちらの宮……。龍神の神子にうり二つ、どころかね……本当に、神子殿だったのだよ。」
 藤姫の目が大きく見開いた。神子様ですって……?
「あなたの言うとおりだった……時空の井戸から戻ってきたのだ。戻るときに、心のかけらをなくして、何が何だか分からなくなっていたらしい。」
「思い出されたのですか?」
「ああ……。出産の前にね。あなたに知らせようかと思ったが、具合が良くなったら、と、ずっと時を待っていたのだよ。今がその時ではなかったと思うのだが……。」
 藤姫の心の中に、すとんと落ちるものがあった。友雅殿は、得るべきものを得られた。神子様を。二人の運命が絡まるのは、藤姫は占いで予見していた。あかねが絡まりを恐れて元の世界に戻ったために、ずれが生じたが、今、そのずれが直ったのだ。自分の居場所は友雅にはない。元々、ないものだったのだ。



 藤姫は、あかねに会おうと思った。本当に神子様なのか、確かめたかった。
 橘の館に戻って、藤姫は、あかねを訪ねた。
「藤姫ちゃん!って、こっちの世界では、やっぱりずいぶん時間が流れたんだね。ずっと大人になってるよ!」
 あかねは笑顔で藤姫を迎えた。
「神子様……。ちっともお変わりにならない。あれから何年も経ちましたのに。」
 藤姫は不思議だった。神子様は何故、16才のままだったのだろう?
「邯鄲の夢だよ。それより……。私、藤姫ちゃんに……ちゃんはおかしいよね……藤姫さんに、謝らないといけない。」
「藤姫ちゃんでよろしゅうございますわ、神子様。謝るとおっしゃるのは……」
「そう、友雅さんのこと。藤姫ちゃんと結婚してたんでしょ? 私、友雅さんを取っちゃった……。ショックだったよね、だから、病気になっちゃったんだよね……。ごめんなさい、なんて、こんな言葉じゃ足りないよね……。」
「しょっく……というのは分かりませんが……。」
 藤姫は、あかねの顔を見つめた。つらそうな顔をしていらっしゃる……。藤姫は、あかねがつらいことの方が、自分が友雅を失うよりつらかった。自分は龍神の神子に仕える星の一族。お仕えする方の幸せが自分の幸せだ。
「神子様がお幸せなら、私も幸せですわ。」
「許してくれるの? 私、友雅さんと一緒にいていいの?」
「もちろんですわ、神子様!」
 藤姫は、最上の笑顔であかねに応えた。あかねも安心した。明るく迎えたものの、藤姫が自分の事をどう思っているのか、さっぱり分からなかったのだ。昔のようにたくさんおしゃべりをして、二人は楽しい時を過ごすことができた。わだかまりがとれて、幸せだった。

「若君を見せてくださいませ。」
 藤姫が言った。
「私は本来、友雅殿と添える運命ではなかったので、子に恵まれなかったのです。占いに出ておりますの。若君が、私を救ってくださると。星の一族の跡を継ぐものとして育てよと。」
 あかねは、藤姫の申し出がうれしかった。罪の子の居場所を作ってもらえるのだ。あかねは、藤姫に若君を託した。重荷を下ろせたのを感じた。



「藤姫様! しっかりなさいませ、藤姫様!」
 藤姫付きの御達の悲鳴で夜が明けた。あかねと夜を過ごしていた友雅は、大急ぎで藤姫の部屋へ戻った。
 藤姫はぐったりしていた。それでも、うっすらと目をあけて友雅を見ると、
「……こうなることは分かっていたのです……。私を、土御門へお連れくださいませ……。星の若君と一緒に……。」
 つぶやくと、そのまま、友雅の胸に倒れ込んでしまった。友雅は、急いで牛車を仕立てさせて、土御門へ向かった。

 土御門に着いた。藤姫は、龍の宝玉の部屋へ連れて行ってほしいと言った。
 星の若君と呼ばれたのは、鷹通とあかねの間に生まれた男の子。3才になっていた。利発でかわいく育っていた。
 藤姫は、苦しい息の中、若君に言った。
「若君……。ここは、龍神様の宝玉をお守りする大切なお部屋です。あなたには、星の一族の血こそ流れてはいないかもしれないけれど、龍神様の思し召しで、お力を備わりました。私の役目は終わったので、これからは、あなたが、この宝玉をお守りしてください。」
「母様……。」
 小さいながら、若君は、大変なことになっているのを理解した。泣きたいのを、ぐっとこらえた。今は、泣いてはいけないんだ。大好きな母様のお話を聞かなくちゃ。
 藤姫は、若君の姿に安心した。宝玉を預けるものを得られてよかった。藤姫は、そっと目を閉じた。

 藤姫の目が再び開くことは、なかった。
 知らせは、あかねの元にも届いた。
 みんな死んでしまう! 私がこちらに戻ってきたせいで……。鷹通さんも、藤姫ちゃんまで!
 あかねは耐えられなかった。こちらへ来たことが悔やまれる。止めなければ、何かの力が不幸を招いているならば。友雅までが死んでしまう予感にさいなまれて、あかねはいても立ってもいられなかった。
 気がつくと、神泉苑に来ていた。時空の狭間……。ここから戻らなくては。不幸を断ち切らなければ! あかねは、狭間に飛び込んだ。
(友雅さん、ごめんなさい! 私はあなたを守りたい! 守るために、あちらへ帰ります!)

 藤姫の死に呆然としたまま、友雅はあかねの部屋に戻ってきた。
「あかね……?」
 いない! 友雅は愕然とした。どこへ行ったのか……。大きな喪失感に、友雅はその場でくずおれそうだった。
 神泉苑の時空の狭間のあたりで、あかねの衣が見つかった。あかねの筆跡で何かが書き付けてあった。

あらざらむ この世のほかのおもひでに いまひとたびのあふこともがな

 あかねはあちらへ帰ったのだ。友雅には分かった。自分のせいで皆が死ぬと。これ以上、こちらにいては、次にまた誰かが死ぬかもしれないと。
(あかねらしい……。だが、残された私はどうすればいいのだね……?)
 友雅は、情熱が消えてなくなるのを、静かに見送っていた。

 星の若君が独り立ちするのを見届けるのが、友雅に託された最後の役目だった。
 若君が元服を迎えた日、友雅は、自らの手で、藤姫とあかねの想い出を燃やした。二人とやりとりした文、日記……。

 早朝、背の高い僧が一人、橘の館から荷物も持たずに深い山へと向かうのを、見送ったものは誰もいなかった……。   (完)



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